研究内容
代謝シミュレーション
細胞の全代謝経路は,数百~数千個の化学反応からなる複雑なネットワークです.そのため,ある遺伝子の欠失や導入が代謝全体にどのような影響を及ぼすかを直感的に予測することが難しいという課題があります.ゲノム解析技術が進展した現在,細胞がどのような酵素を有しているのかという知見が明らかになってきており,これらの情報を利用して代謝の振る舞いをシミュレーションする研究が注目されています.
ゲノムスケール代謝モデルは、反応の化学量論のみを考慮して構築される数理モデルであり,定常状態における代謝の流れ (フラックス分布) をシミュレーションするのに利用されています.代謝経路は分岐や合流,回路が含まれるため自由度が高いシステムとなっています.そのため,測定可能な代謝経路への流入・流出のフラックスだけでは,フラックス分布を一意に決定することができません.フラックスバランス解析 (FBA) は,このような高自由度の代謝経路のフラックス分布を予測する手法の1つであり,目的関数を設定することで線形計画法によりフラックス分布を求めます.目的関数としては細胞増殖の最大化が用いられることが多いです.これは生物の代謝状態はこれまでの進化の過程を経て,自身の細胞増殖を最大化するように自己調節されているという仮定に基づくものです.非常に大雑把な仮定にも関わらず,この手法で予測されたフラックス分布は,13C代謝フラックス解析のような実験的な手法で求められた結果ともある程度一致しますし,必須遺伝子の予測,栄養要求性の予測,通気状態の変化に対する発酵プロファイルの予測に威力を発揮します.
FBAの概要
FBAを利用した代謝設計に基づく3ヒドロキシプロピオン酸生産大腸菌の開発
論文:Increased 3-hydroxypropionic acid production from glycerol, by modification of central metabolism in Escherichia coli
Kento Tokuyama, Satoshi Ohno, Katsunori Yoshikawa, Takashi Hirasawa, Shotaro Tanaka, Chikara Furusawa, Hiroshi Shimizu
Microbial Cell Factories, 7: 64 (2014)
FBAの代謝工学への応用例として,遺伝子破壊シミュレーションによる増殖連動型の代謝経路設計があります.多くの場合,目的物質の生産は細胞増殖と競合するため,細胞増殖最大時には目的物質は生産されません.そこで,特定の代謝経路を遮断 (遺伝子を破壊) することで,増殖するためには目的物質を生産しなくてはならないように代謝経路を変えてしまうわけです.この方法では,細胞増殖の最大化を目的関数として,遺伝子破壊時における目的代謝物の生産速度を予測します.多重遺伝子の破壊の効果を網羅的にシミュレーションすることで,増殖最大時に目的物質の生産量が増加する遺伝子破壊の組合わせを探索します.
この研究では,グリセロールからポリマー原料である3ヒドロキシプロピオン酸を生産する大腸菌の育種にFBAを利用しました.遺伝子破壊シミュレーションの結果,tpiA, zwf, yphDを破壊した大腸菌では,増殖最大時に3ヒドロキシプロピオン酸が生産されることが予測されました.実際に,これらの3遺伝子を破壊した大腸菌では3ヒドロキシプロピオン酸の生産量が著しく増加しました.
FBAで予測した遺伝子破壊が3ヒドロキシプロピオン酸の生産に及ぼす影響
FBAを利用した代謝設計に基づくコハク酸生産大腸菌の開発
論文:Application of adaptive laboratory evolution to overcome a flux limitation in an Escherichia coli production strain
Kento Tokuyama, Yoshihiro Toya, Takaaki Horinouchi, Chikara Furusawa, Fumio Matsuda, Hiroshi Shimizu
Biotechnology and Bioengineering, 115(6): 1542-1551 (2018)
遺伝子破壊シミュレーションによる増殖連動型の代謝設計は,上の3ヒドロキシプロピオン酸の生産以外にも様々な例で成功しています.この研究ではコハク酸を目的物質として同様の代謝経路設計を行い,生産性が向上したことを示しています.
しかし,実験的に確認された生産性の向上はFBAで予測した生産性には及んでいないことが分かりました.この予測と実験の不一致は,遺伝子破壊直後の細胞の代謝状態が必ずしも細胞の増殖に最適な代謝状態になっていないことに原因があると考えました.この代謝経路設計は,細胞増殖と目的物質の生産がカップリングするように代謝経路を変えています.そこで,構築した遺伝子破壊株について指向性進化を実施することで,その代謝状態を細胞増殖に最適な状態に導くことで,生産性の更なる向上が実現できるのではないかと考えました.
実際に継代培養によって細胞増殖は徐々に増加しており,100世代ほど経過した進化株ではほぼFBAで予測した通りのコハク酸の生産性を達成しました.これは進化の過程でゲノムに変異が入り,代謝経路の律速段階が解消されたためと考えられます.そこで、独立5系列の進化実験で得られた進化株について,ゲノムリシーケンシングによる変異解析を実施したところ,5株に共通してppc遺伝子に変異が入っていることが分かりました.このppc遺伝子がコードするホスホエノールピルビン酸カルボキシラーゼは,解糖系のホスホエノールピルビン酸とTCA回路のオキサロ酢酸を繋ぐ重要な酵素であることが知られています.更なる解析により,この変異がアスパラギン酸によるフィードバック阻害を無効化する効果があることが分かりました.このように増殖連動型の代謝設計と指向性進化は,代謝経路の律速段階を解消する強力な手法であると言えます.
コハク酸生産を目的とした代謝経路設計と指向性進化による律速段階の解消
FBAを利用した代謝設計に基づくエタノール生産シアノバクテリアの開発
論文:Metabolic engineering of Synechocystis sp. PCC 6803 for enhanced ethanol production based on flux balance analysis
Katsunori Yoshikawa, Yoshihiro Toya, Hiroshi Shimizu.
Bioprocess and Biosystems Engineering, 40(5): 791-796 (2017)
シアノバクテリアは大気中のCO2を光合成によって直接固定し,有用物質に変換することを可能にする魅力的な微生物です.しかし,その生産性は他の大腸菌や酵母などの工業微生物と比べると著しく低く,改良が必要とされています.私たちは,シアノバクテリアのモデル生物であるSynechocystis sp. PCC 6803についてゲノムスケール代謝モデルを開発し,代謝シミュレーションを行うための基盤を整えてきました.本研究ではこのモデルを利用したシミュレーションにより,エタノールの生産性を向上させるために有効な遺伝子破壊を予測し,それを実験で検証しました.実験において、NADH脱水素酵素のサブユニットの1つをコードするndhF1を欠失した株にエタノール合成遺伝子を導入したところ,コントロール株の2倍のエタノール生産を実現しました.
FBAで予測した遺伝子破壊がエタノール生産に及ぼす影響